財団の歴史

起源

多くの名案の例に漏れず、アメリカ人と日本人の相互理解を助ける民間財団という概念は、仲間内の会話から生まれた。

US-Japan History
写真左から右: アンジエール・ビドル・デューク大使、笹川良一氏、ロビン・チャンドラー・デューク女史 1980年 東京にて

ここでの仲間とは、ロビン・チャンドラー・デューク女史と彼女の夫である故アンジエール・ビドル・デューク大使、そして日本の企業家、故笹川良一氏である。ニューヨーク在住の著名人であるロビンと「アンジー」・デューク夫妻は、発展途上国での国連プログラムの支援という共通の関心を通して、1970年代の後半に笹川良一氏と知り合った。

貧しい酒造りの息子として生まれた笹川良一氏(1899〜1995年)は、主に競艇から築いた莫大な資財で、財団法人日本船舶振興会を創設した実業家である。1970年代には、氏は世界保健機関、ユニセフ、ユネスコ、国連難民高等弁務官事務所、国連人口基金を初めとする国連の諸活動に2,500万ドル以上を寄贈した。氏はまた、ニューヨーク市にも、セントラルパークに植樹する250本の桜の木を寄贈し、モアハウス大学やデューク大学などの米国の大学にも総額600万ドルを寄附した。また、ロビン・デューク女史の密接な協力者として彼女の人口問題に関する活動を支援した。1980年までに、デューク夫妻と笹川氏とは親しい友人関係を築いていた。

アンジー・デューク氏は、留学生として初めて日本を訪れた1937年以来、日本の国と文化に関心を持っていた。ケネディー、ジョンソン両大統領の下で(国務省)儀典長(Chief of Protocol)を務め、佐藤栄作首相の訪米の際、首相の同伴を務めた。1976年には、ニューヨーク市のCommissioner of Civic Affairs and Public Eventsとして、昭和天皇の同市訪問を歓迎する手配の責任者を務めた。

デューク大学の名称の由来であるワシントン・デューク氏の曾孫 アンジー・デューク氏は、笹川良一氏に初めて会った時に、すでに外交官として揺るがぬ地位を築いていた。エルサルバドル、デンマーク、スペイン、モロッコで米国大使を務め、1954〜60年 にはIRC (International Rescue Committee)の理事長を務め、 後に同機関の名誉会長を務めた。

ロビン・チャンドラー・デューク女史は、世界人口問題に情熱的な関心を持ち、当時ウィリアム・ドレイパー将軍が指揮していたPopulation Crisis Committeeのメンバーであった。同機関は、貧困国での開発プログラムは、爆発的な人口増加を抑えること留意しない限り成功し得ないという確信に立っていた。ドレイパー氏は1970年代に同機関の活動への支援を求めて来日し、当時70代であった笹川良一氏を紹介された。笹川良一氏をロビン・デューク女史に紹介したのは、このウィリアム・ドレイパー氏であった。

1980年のある日、ロビン・デューク女史と笹川氏は、日米の貿易不均衡の増大から緊張しつつある日米関係について話していた。笹川氏は、米国人が日本人を理解していないと感じ、理解推進を目的とする財団ができれば、これらの摩擦解消に役立つのではないか、と考案した。デューク女史はこれに情熱的な反応を示し、そのような財団を率先して設立するようご主人に勧めた。笹川氏は財団基金として、直ちに100億円(当時の為替レートで4,480万ドル)を誓約し、日本の運輸省がこの助成を許可した。

1980年11月までに米日財団はニューヨーク市で非営利団体として法人化され、1981年の初めには、 内国歳入法第501条(c)(3)項に基づく慈善財団の認可を受けた。財団の目的は、「教育、慈善、文筆活動、科学のみに焦点を置き」「両国の社会、文化、教育制度、経済、政府、国際関係の理解を深め、 …両国の国民の間で協力を推し進めること…」である。

デューク夫妻は、財団顧問として著名な米国人リーダーを招請した。顧問には、ヘンリー A. キッシンジャー元国務長官、スクリップス・ハワード・パブリケーションズのジャック・ハワード氏、オービル・フリーマン元農務長官、ジョン C.ソーウェル元エネルギー副長官、Appeal of Conscience Foundation理事長のラビ・アーサー・シュナイヤー師、インターナショナル・フレイバーズ・アンド・フレグランシズ社のヘンリー・ウォルター・ジュニア会長、「Editor and Publisher」誌の出版者であるロバート U.ブラウン氏、 National Committee on American Foreign Policyの執行会長(Executive Chairman)であるアントニー・ドレクセル・デューク氏、ウィリアム・メロン・イートン弁護士、ビル・ピケンス・アソシエイツ社長のウィリアム・ピケンス3世、ジェローム・ホーランド元駐スウェーデン米国大使が含まれた。

当時、笹川氏の他に重要な日本人顧問としては、茅 誠司元東京大学総長、 岩田 弍夫東芝グループ会長、牛場 信彦元駐米大使、出産計画に関する国連顧問であるマツムラアキオ氏が含まれました。

1981年3月27日、アンジー・デューク氏はニューヨーク市ロックフェラー・プラザ30番地のレインボー・ルームで記者会見を開き、二カ国の理解推進を目的とする非営利民間助成機関である米日財団の設立を発表した。「相対的に緊張の時期である今、この財団の誕生が、世界の二大先進民主主義国の間には衝突点よりも共通点の方が多いという事実を皆に想起させるよう望んでいます。」とデューク氏は述べた。彼は新設された財団の初代会長に就任した。

発展

理事会の最初の仕事は、日米関係に造詣の深い理事長の選考であった。理事会が選んだ人物は、日本語が堪能で、日本で11年間領事職・外交官職に就いていたキャリア外交官リチャードW. ピトリー氏(56歳)だった。1981年には彼は米国の国連大使の一人だった。ピトリー氏は1981年10月に財団理事会に加わり、財団の崇高な原則を具体的な助成金に変容するという難しい仕事を開始した。相手国についての教育がより必要なのは、アメリカ人か、日本人か、という点では理事会でも意見が割れたが、ピトリー氏の回答は両国の側で相手をより良く知ることが必要、というもので、こうして助成活動のパターンが確立され、それが現在まで存続してきた。助成金は日米両国で、相手国の歴史、文化、言語を自国での学生に最も良く紹介できる教育者に提供されてきた。日本での助成事業の促進を目的に東京事務所が開設された。

しかし、どの教育課程を対象とするか。ピトリー理事長と理事会は、生徒の感受性が強く、心がオープンで、外国語を学ぶ上でも適した大学前教育こそ影響力が最大でありうると決定した。また、この課程は他の財団の多くが無視していた課程でもあった。こうして財団は、初等・中等教育の学校と教師、ならびに大学前課程教師養成に限定した大学を対象とする教育助成金の提供というもう一つのパターンを設定し、これが今日も生き続けている。

第二の焦点は、ピトリーの言う「中核グループ」となる。これは安全保障、エネルギー、環境などの極めて重要な政策分野に影響をもたらしうる日米の有識者が何回かにわたってインフォーマルな小人数の研究グループに分かれて会合し、意見の交換を行うものである。これは、官僚的で融通が利かない公式外交の弱点を避けながら、理解を深める方法である。このような活動は、財団の日米政策研究の分野で今後も継続的に支援を受ける。

第三の焦点はジャーナリスト、学者、指導的実業家、教師等のさまざまな分野に属する人々の交換である。その趣旨は、日米のオピニオンリーダーに、相手国の同業者と直接協力しながら互いに知り合いとなる機会を創ることであった。この焦点は、今日でも財団の日米リーダーシップ・プログラムや、他のリーダー交流を促進する助成プロジェクトの形で継承されている。

アンジエル・ビドル・デューク氏は1986年に理事会会長を退任し、後任に指導的実業家でレーガン大統領の 特別通商代表であったウィリアム D.エバール氏が就任した。ピトリー氏も1988年に退任し、後任に同じく外務省のキャリア外交官で駐フィリピン米国大使として優れた業績を残したスティーブンW.ボズワース氏(現在は在韓米国大使)が就任した。ボズワース氏は既存のプログラムを土台に、共通の懸念分野に新しい広がりを与え、韓国、中国、東南アジアの共同研究を推進した。

エバール会長は1994年に退任し、後任にトーマス A.バートレット博士が就任した。それまでニューヨーク州立大学総長を務めていた博士は、以前アラバマ大学システム 総長として財団の働きに関与されていた。ボズワース氏が1996年に朝鮮半島経済開発機関(KEDO)の最高責任者に指名されたため、レーガン政権の駐ネパール米国大使であったジュリア・チャン・ブロック女史が理事長として彼の後任に就いた。

財団はこの新しい指導者の下で、人々の財団についての認識を高め、様々な支持者の脳裏にその使命をより強く焼きつかせるために活動した。この努力の一環として、財団は「コミュニケーションと世論」という新分野での助成活動を正式に承認した。ブロック女史のイニシアチブにより、財団は日米両国の中学・高校を対象とする助成能力を強化し続け、財団プログラムへの参加経験のある教師のネットワークを利用する活動を奨励した。

ジョンズ・ホプキンスSAIS (スクール・オブ・アドバンスト・インターナショナル・スタディーズ)東アジア研究学部の学部長兼教授であったジョージ R.パッカード博士がブロック女史の後任として1998年に理事長に就任した。日本専門家である氏は、先達の活動をさらに発展させ続け、始めて財団が実施主体となる日米リーダーシップ会議プログラムを活動に加えた。パッカード氏のリーダーシップの下で、教育分野の助成金が増え、公共政策研究に対するきめ細かな見直しが行われた。財団は、公共政策研究グループが独自の研究を行うことと、政策決定者や広く国民に評価されるような健全な公共政策に関わる提言を行うべき点を強調した。

今日

今日、三十数年前の仲間内の会話と 笹川良一氏の夢は、極めて専門的な組織へと開花し、その使命は広く世界に認識されている。日米の代表者から成る理事会は、年に2度(一回は日本で、一回は米国で)会合し、基本的方針を設定している。理事会での討議はこの種の二国の代表から成る団体の役員会としては極めて率直かつ誠意あるものである。ニューヨーク事務所では6名の正職員、東京事務所では3名の正職員が理事会の決定した方針の実施を担当している。

財団の今日の課題は、創立時と同様の柔軟姓と独創性を保ち続けることである。日米二国間には新しい問題が生まれる。新世代が指導者的地位に就くにつれて、新たな誤解が表面化する。新しい助成の機会も生まれ、我々は、これに対応してゆくつもりである。しかし、「世界の二大先進民主主義国には衝突点よりも共通点の方が多い。」というアンジー・デューク氏の言葉は今も真実である。